16巻・・・前半部分は謎だらけである。矛盾?描き間違え?深層心理の表現?・・・とにかく、意味が理解出来ない表現や描写が多いのだ。正直・・・20世紀少年の連載後日談で浦沢氏が「執筆中はとにかく体調が悪かった・・・」と語ったこともあり、作者の描き間違えだよ!で終わらせた方がよくない?って位に「謎が深まる」のである。
ここで描かれるのは、1969年の夏~1971年の夏休み最後の日である。この3年間こそ、20世紀少年なのだ。1969年の夏「原っぱの秘密基地」が出来上がり、1970年の夏「首吊り坂の幽霊事件」が起こり、1971年の夏「理科室の奇跡」が起こるのである。今回は、それらの内容が「フクベエ目線」で紹介される・・・。
ここで解るのは・・・フクベエはとにかくヒネクレタ子供だということだ。以前に拝見した他のブログで、ここに登場するフクベエの行動や作中表現を「児童心理学」の観点から解き明かそうとしたモノがあった・・・非常に面白く、興味深い内容であったが、如何せん・・・専門用語が多く・・・半分以上・・・いや、殆どの内容を忘れてしまった・・・申し訳ない。
私的には・・・やはり自分や友人、その他、子供から大人へと成長する過程で理解出来るようになった「日常的観点」から、自論(いや、多分・・・謎の紹介で終わるだろうが)を展開したいと思うのだ。
16巻の冒頭・・・「虹の付け根」の話が登場する。子供達が虹を見て大はしゃぎするシーンが登場する。多分、皆さんも経験があるだろう。ケンヂ、オッチョ、ヨシツネ、マルオ、ユキジが「虹だぁ。」と見とれている中・・・「虹・・・?ただの虹かよ。そんなことで呼ぶなよ。こんなのおもしろいかよ。ただの虹じゃないか。」と、冷めた考えを持つ子供がいる。そして、虹の作り方の解説を始めるが・・・誰も聞いていない・・・。
これは・・・実はよくある話だ。小学生時代、大人びた子供(あたまの良い子供)は、他の子供が不思議に思ったりするコトも理屈や知識で理解出来ている。そして「お前達、そんなことも知らないの?」と、その理論を説明しようとするが・・・正直、子供にとっては「虹が出来る理由」よりも「目の前に虹が出て、それを見た」ことの方が重要なのだ。難しい理屈は「おもしろくない」から誰も聞かないのだ・・・。多分、クラスの優等生がこの手の解説を始めると「あ~あ、また難しいコト云ってるよ・・・」と、なっただろう。
だが、フクベエの性格(描写)の面白いのは、その後にケンヂの云う「俺なんか虹のつけ根、見たことあるぜ。」という台詞に対し・・・「(僕だって)見たことある。ホントだよ。絶対だ・・・見てないわけ・・・ない。」と、さっきまで馬鹿にしてたケンヂに対抗心を燃やし、見てもいない「虹のつけ根」を「僕も見た・・・お前が見てて、僕が見てないなんて在り得ない!」と、自分自身にいい聞かせるトコロだ。
もし、小学生くらいの子供と会話する時は・・・彼等の云う言葉をよく聞いて欲しい。先日、私の甥っ子は「近所の漁港で、多分、60センチくらいの魚を釣った!途中で糸が切れたから逃げられたけど・・・」と、大人ならスグに嘘だと解るような「武勇伝」を語るものだ。それが子供なのだ。トイレの花子さんを見た小学生が多いのもそのせいだろう。
フクベエはケンヂを「子供だな・・・」とバカにしつつ、ケンヂに対する「対抗心」が異常なほど強いのだ。そして、そのケンヂよりも自分が優位に立ちたいと常に思っているのだ。少年サンデーを貸したり、漫画コレクションを自慢する為に自宅に招くのも「どうだい?僕ってスゴイだろ?」と、ケンヂに云いたいからだ。
だが・・・ここで一つの矛盾が発生している。ヨシツネはフクベエを「(子供の頃の記憶に)あいつは・・・いない」と発言していたのだ。つまり、フクベエはそういう「印象の薄い」子供だと考えなければならない。それって、どういうシチュエーションなら矛盾が解消出来るだろう?
私的には・・・皆と一緒に騒ぐことがなく、率先してリーダーシップを取らなかった子供。イベント(作中の首吊り坂など)には参加してるが、列の後方に位置し、盛り上がるコトのないタイプの子。率先して自分の意見を述べない子。ちょっとクールで大人びた子・・・そんな人物像が浮かんでくる。
20年経つと・・・他人には、記憶の片隅にも残ってなかった・・・
「教えろよ、よげんの書って一体なんなんだ。仲間に入れてくれるって・・・言った。絶対言った。絶対言った。絶対言った。」
これもフクベエの「心の叫び」なのだ。実際には・・・多分・・・「漫画、見に来ていいよ。そのかわり・・・」で、会話は止まったのだろう。フクベエにしてみれば「何が言いたいかくらい解ってるだろ?なのに・・・なぜ仲間に入れてくれないんだ!」ってトコだろうね。
ここらの描写から、フクベエは「頭は良いが、感情や考えを表現するのが苦手で、嫌なコトが在っても顔には出さず、ワンパク集団には馴染めない・・・そのくせ、常に人よりも優位でなければ気がすまない・・・」そんな子供だったコトが想像できる。
そして・・・この物語の最大の矛盾の一つ・・・「サダキヨとの出合い」が登場する。
フクベエがこっそり秘密基地を訪れ、よげんの書を見つける。そこへサダキヨが現れ、2人は会話を交わすのだ。が・・・そこで表記される年代は「1969年」なのだ。サダキヨが同級生だったのは5年生の1学期、つまり「1970年の春~夏休みまで」の期間だ。1969年の夏・・・何故、2人は出会ったのだろうか?お互いの会話から、多少は相手を認識しているし、ケンヂ達グループは共通の認識だ。どう考えても・・・作者の間違えとしか思えない。多分・・・1970年の間違いだろう・・・と、思いたいのだが・・・フクベエが貸した少年サンデーの表紙に記載されている「デビルキング」や、台詞内に登場する「夕焼け番長の最新刊」は、どちらも1969年の作品だ(調べた限り)。そこまで細かく時代背景を描きこんだ作品で、このような安易な間違いが在り得るのだろうか?
ネット上でも様々な議論がされていた・・・。サダキヨはイジメラレっ子で有名で、他校の生徒にも知られる存在・・・?では何故・・・サダキヨはフクベエを知っているのか?実は、これはフクベエではない・・・。確かに・・・この回想の最後に、「これは全て過去の記憶のはず・・・」と云ったのは、新ともだちである。
フクベエは双子だった?この回想に登場するフクベエは「もう一人のフクベエ=カツマタ君では?」。更には、サダキヨ双子説も飛び出した。だが・・・残念なコトに、これら双子説やカツマタ君では?説は作中では一切語られていない。唯一、カンナが新ともだちに対して「整形してるの?」と聞くシーンがあっただけだ。
整形に関して云えば、作中登場人物の「高須」は「高須クリニック」から銘銘され、美容整形のプロでは?というものがあったが、「新ともだち=偽フクベエ?」を目撃した際の驚きぶりを見る限り、高須がフクベエ顔の整形手術を担当した・・・とは云えないだろう。
1969年、4年3組文集「ゆめ」で、フクベエは大阪万博を語っている。文集を作っている点から、4年生の3学期だということが解る。「おまえが作文で書いたマンハクってなんだ?」と聞くケンヂに「マンハク・・・?知らないんだ、知らないんだ!ヒャヒャヒャ!」と答えたフクベエに対し、ケンヂは明らかに「なんだよコイツ?つまんねぇ・・・」って顔してる。これもフクベエの日頃の人間関係を描いているように思う。やはりフクベエは「他人をバカにするタイプの子供」で、そんなに人気のある人物ではなさそうだ。その後、フクベエが語った万博の話でクラス中が持ちきりになる。
フクベエが「万博」に拘ったのはこれだと思うのだ。
「あのケンヂが・・・僕の話に夢中だ・・・」
「すごいや・・・僕のした話をクラス中が・・・万博ばんざい、万博ばんざい、万博ばんざい」
フクベエにとっては「万博」そのものより、「自分が教えた万博の話」で周囲の人間が騒いでるコトが重要なのだ。この後に登場する・・・万博に行けないフクベエのエピソードは、「万博」に行けないことより、「姿を隠す」というフクベエの行為・・・それに纏わる周囲の反応、それに対するフクベエの心理・・・が大切なのだろう。
ところで?フクベエは「大阪万博には行ってない」のだ。行けなかったというべきか?これについても、色々な憶測が飛び交った。フクベエは誰と行くつもりだったのか?いや、誰に連れて行ってもらう予定だったのか?作中では明言されていないので、あくまでも読者サイドの憶測である。
①当然、両親に連れて行ってもらう。大阪に親戚が居ると文集に書いていた。大人の事情で行けなくなったのだ。それは「離婚」である。フクベエの家庭環境は紹介されていないが、サダキヨは「お父さんがダメって言ったの?大阪の親戚がダメって言ったの?」と聞いている。母親には一切触れていないのだ。これは、フクベエ双子説を唱える読者から支持されたものだ。父親にフクベエが引き取られ、母親にもう一人が引き取られたというものだ。サダキヨが管理していた「ともだち博物館」の子供部屋が分かれていたのもそれが理由だというのだ。「理科が好きな子供」と「漫画とおもちゃが好きな子供」の双子である。
②ヤマネ君に連れて行ってもらう。ヤマネ君は万博組である。ヨシツネは日射病で倒れた時、心底羨ましいと思った・・・と語っていた。ヤマネ君は大阪に親戚が居るのだ。4年生の時、オッチョに「しんよげんの書」のコトを話したヤマネ君は、その後フクベエに絶交された・・・。その為、フクベエは万博に行けなくなってしまった。
さて、私的には・・・双子説は別として・・・フクベエには兄弟が居たのでは?と思っている。が、今回は双子説を支持した内容で考えてみたい。フクベエがサダキヨと2人で過ごす夏休みの情景である・・・。フクベエは「漫画部屋で勉強している」のだ。もう一つの部屋は登場していない。「ともだち博物館」の矛盾である。もし・・・双子説が成立し、「カツマタ君」がフクベエの兄弟なら・・・「理科が好きな子供部屋=カツマタ君の部屋」となる。※他ブログの議論では逆になっていた。「ともだちの挙動」から、新ともだちは子供っぽい・・・と、いうのだ。だが、カツマタ君がフクベエの兄弟なら「理科の実験大好きカツマタ君」である以上、カツマタ君の部屋は「理科」である・・・と、私は思うのだ。サダキヨは知っていたのかもしれない。何故なら、サダキヨと新ナショナル・キッド仮面には親交が在ったからだ。
両親の離婚については、確かに・・・フクベエの家には女性用の鏡台が在るが、母親の姿はない・・・。1970年という時代背景に詳しくないので解らないが・・・夏休みに母親が居ないのは不可解とも云える。共働き家庭のようには見えないからである・・・が、まぁ~根拠はない。
もう一つ、フクベエの挙動で特徴的なのは、呼び名である。初対面のサダキヨが「あ・・・あの・・・フクベエ君て呼んでいいのかな・・・?」「だめだ。」「ハ・・・服部君だよね。ごめんね。」(中略)「僕はフクベエでもなければハットリでもない。僕はただのともだちだ。」と、サダキヨやヤマネくんに対し、自分を「ともだち」と呼ばせてるのである。これには意味は無いのかもしれないが・・・まぁ、今時点では、小学4年生の時、秘密基地でよげんの書を見た時から、フクベエの計画は始まっていた・・・とか?
サダキヨにお面を借りたフクベエが漫画を買いに行く途中、サダキヨと間違われイジメに遭うシーンがある。「おまえ、最近見かけないと思ってたら、隣の学校に転校したんだってなぁ。」という発言がある。さて、ここで一つ気が付くだろう・・・。フクベエは歩いて漫画を買いに行く途中で、隣の小学校の生徒に遭遇したということだ。
確かに・・・今のように少子化ではない時代だ。私が通った小学校も、川を挟んで500メートルくらい先に「隣の小学校」があった。※今は一つに統合されたそうである。つまり、1969年にサダキヨとフクベエが出合っていても不思議はないのだ。作中で明言されていないが、隣接する小学校に通う同士なら、友達ではないが顔見知りなのも納得し易いだろう。
そして、ここで問題のシーンが登場する。イジメに遭った後、商店の窓ガラスに映ったフクベエの顔が「のっぺらぼう」なのだ。それを見たフクベエは驚き絶叫する・・・。児童心理学の観点から見ても・・・こういう状況は在る・・・と、書かれていたと思う・・・いや、正直云うと・・・はっきり憶えていないのだけど?
そして・・・家の中で鏡に向かうフクベエ。「顔・・・あるよな・・・」の台詞から、フクベエがのっぺらぼうの自分を見たことが想像できるのだが・・・この後の台詞がまたまた問題なのだ。「君は・・・誰?サダキヨ・・・?くく・・・
違うよ、くく・・・」これは、理解出来る。サダキヨに借りたナショナルキッドのお面を取った後の台詞だからだ。だが、次の台詞「君は・・・カツマタ君?くくく、違うよ。」これは物議を呼んだ。
21世紀少年を読んだ方なら理解出来るだろう。先に登場した、本当の1971年のVAを思い出して頂きたい。理科室で奇跡を披露したフクベエの前にはヤマネ君とサダキヨの姿があった。それをドンキーが目撃し、「絶交だ!」の言葉と彼等の挙動に身の危険を感じたドンキーは窓から飛び降りる・・・。これを「1971年の理科室の奇跡」と呼ぶことにする。この理科室の奇跡での矛盾は、1970年に転校したサダキヨがその場に居たことだ。実は、21世紀少年で、ナショナルキッドのお面少年が2人居たことが明かされている。つまり・・・ナショナルキッドのお面少年の2人が「サダキヨとカツマタ君」だということの伏線だと思うのだ。そして、理科室の奇跡に居合わせたナショナルキッドは「サダキヨではない」のだろう。サダキヨは、小学校を転校後、中学生になるまでこの町には戻っていないと告白しているからだ。
そして・・・次のシーンである。
「じゃあ君は・・・誰?君は誰だ?」と、鏡に自問自答するフクベエ。そこへ「ハットリくーん。」と呼ぶ声が聞こえる。外を見ると・・・サダキヨの姿がある。「なんでハットリって呼ぶんだよ。」「いや・・・あ・・・ご・・・ごめんよフクベエ・・・」「フクベエでもハットリでもない。僕はともだちだって言ってんだろ!」。これが問題視されたのだ。
鏡に自問自答するフクベエの心理状態も謎だが、サダキヨが「ハットリくーん」と呼ぶことについてである。サダキヨはフクベエに「僕はともだちだ」と念を押され、実際、フクベエのことを「ともだち」と呼んでいた。まぁ・・・「ハットリくーん。」は理解出来る。普通、同級生の家を訪ねれば苗字で呼ぶだろう。モンちゃんが理科室に向かう前、ドンキーを訪ねた時も「木戸くーん。」と呼びかけていた。普通ならそうだ。
だが、「なんでハットリって呼ぶんだよ。」に対し「ご・・・ごめんよ、フクベエ・・・」は確かに違和感がある。当然、ここの台詞は「ご・・・ごめんよ、ともだち・・・」が自然な流れだろう。このシーンから「サダキヨ双子説」も登場した。21世紀少年のナショナルキッドは双子サダキヨ?ってわけだ。だが・・・仮に「フクベエが双子だった場合」はどうだろう?
かなり無理があり、混乱する解釈だが・・・この16巻で描かれる「フクベエが一人ではない場合」・・・「フクベエと呼ばれるハットリ」「ともだちと呼ばれるハットリ」が存在するということだ。更に、今まで繋がっていると思っていた一連の流れがバラバラだった場合・・・。サダキヨにお面を借りたフクベエ、元々お面を持っているフクベエの区別が付かないのだ。現に、ともだち博物館にはナショナルキッドのお面も掛けられていた。
かなり無理があると云ったのは、「フクベエ双子説」を無理矢理こじ付けなければ、この解釈が成立しない点である。
ネット上で「フクベエ双子説」に疑問を感じたのも・・・実はそこなのだ。フクベエには双子の兄弟が居て、何かの事情で別々になった。だが、フクベエと一緒に行動する時はナショナルキッドのお面をかぶることで、それが許された。フクベエは自分が双子だというコトを周囲に隠したかった・・・。それは、常識的に在り得ない。隠す必然性が無いのだ。ましてや、双子の兄弟に「お面をしなきゃ、一緒に行動しない!」って云われて「はい、わかりました」なんてのも在り得ないだろう。
私が双子説を面白いと感じたのは・・・仮にフクベエに兄弟が存在し、その彼が「自らの意思でお面をかぶった可能性」が考えられたからだ。新ともだちが、フクベエのコトは誰よりも知っている的発言をしたコトも合わせれば、兄弟でもおかしくはないと思うのだ。兄かもしれないし、弟かもしれない。そもそも、この16巻の回想自体、新ともだちの記憶として描かれた?らしき描写もある・・・。つまり、この回想は「フクベエの行動を見ていた」新ともだちの記憶・・・と、解釈が可能なのだ。サダキヨは、別のフクベエ(ナショナルキッド)を訪ねたのだが、ともだちフクベエが出てきた・・・なんてのは?どうだろう・・・。別に双子にこだわる必要性を感じないのは、ドンキーの葬式の時・・・「昔は見分けが付いたけど、大人になると、どれがドンキー1号で2号だか、さっぱり解らない・・・」という台詞があるからだ。兄弟なら、元々の創りが同じなので、整形で同じ容姿になるのも不可能ではないだろう。
そして、首吊り坂の幽霊騒動である。
フクベエとサダキヨが吊るした巨大テルテル坊主が幽霊騒動の発端になった?ようだが、ここの描写も曖昧である。「のっぺらぼーだああ!」と驚く大学生に対し、サダキヨは「あの人達、階段の下まで行ってないような・・・」と疑問を感じている。そして・・・鏡に映るフクベエの姿・・・。その横のサダキヨ・・・。実は、ここのサダキヨは左右が反転していない。これに意味はあるのか?描き間違いか?更に、この後・・・鏡に映ったフクベエが再びのっぺらぼうで表現されている。もし、これが実際にフクベエの見た姿なら、フクベエはこの時期、度々自分がのっぺらぼうに見えたということになるが・・・何を意味しているのだろうか?
その後、首吊り坂の幽霊を見るためにケンヂ達が屋敷に向かうのだが、日中にケンヂはフクベエを誘いに来ているのだ。8月28日である。家の外から「フクベエー」と呼びかけるケンヂに対し、「どうしよう・・・出ていいのかな、どうしよう・・・」と迷うフクベエ。私はこのシーンに、フクベエの存在感の無さを再び感じた。夏休み中は大阪に居る予定のフクベエを何事も無いように誘うケンヂ達・・・。いや、存在感の無さというよりは、フクベエの思い込みだろうか?結局、フクベエの周囲(の友達)はフクベエが夏休み中は大阪に居るなんてこと、知らないのだ。じゃなきゃ・・・大勢で誘いにはこないだろうから・・・。
ここでケンヂが「フクベエー」と呼びかけたコトを深読みしてみよう。サダキヨは「ハットリくーん」と呼びかけていた。敢えて「フクベエー」と呼びかけなければならない理由だ。フクベエ以外の呼び名の子が居る?フクベエには兄弟が居る?これは考えすぎだろうか?まぁ・・・確かに、小学生くらいの子供で、ワンパクなガキなら・・・この呼びかけは自然ではある。単に、サダキヨとケンヂの性格の違いが表されただけだろうか?
ケンヂが自分の仕掛けた幽霊(てるてるぼうず)で驚く様を見たいフクベエは、ナショナルキッドのお面をかぶり出掛けるが、ケンヂと出くわしてしまう。「よおっ。おまえも来たのか。」ケンヂに促されお面を取るフクベエ・・・「あの・・・僕、さっき帰ってきたんだよね・・・」と弁明しようとするが、周囲は誰も聞いていない・・・。無視ではなく、フクベエが居るコトに疑問を持つものがいないのである。ちなみに、ともだちランドで小泉響子が体験したVAにもフクベエの姿は登場していた。
とりあえず・・・巨大てるてるぼうずは失敗である。ケンヂ達は大笑いである。「みんな、こんなの見て幽霊だって大騒ぎしてたのか!」呆れ顔で帰る少年達・・・が、ケンヂとオッチョはてるてるぼうずの後ろを横切った人影を見つけ、二人で屋敷の奥へと行ってしまった。
ここで、再び謎?である。小泉響子が体験した「1971年の幽霊坂」と、真実の「1970年の幽霊坂」では台詞が違うのだ。1971年VAでは「おまえ、なんでこんなことしたんだ・・・」「うるさいな、なんだっていいだろ!」とサダキヨとフクベエの会話形式になっているが、1970年VAでは「おまえ、なんでこんなことしたんだって聞かれたら、うるさいな、なんだっていいだろって答えるんだ!」と、フクベエが一方的に責任をサダキヨに押し付けているのである。・・・これが「1970年の嘘」って・・・これはミスリードの可能性が非常に高い。ヤマネ君がこの事件を知っているかは疑問だが、フクベエが隠したかったのは、1971年の「理科室の奇跡」だと明言されているからだ。
だが、なぜ1971年の首吊り坂(嘘のVA)では会話になっていたのか?1971年VAでの「ともだちの正体」が「サダキヨ」に設定されていたからだろうか?
そして・・・未だに解明されない「謎」だが、屋敷の奥で幽霊を見たケンヂとオッチョが叫びながら飛び出してくる。いったい何を見たのか?作中で語られることはなかった。その後、フクベエとサダキヨも屋敷の奥へ向かう・・・。サダキヨは「うわっうわっ!のっぺらぼうだあー!」と叫び逃げ出すが、フクベエには・・・何も見えないのである。ここの描写も非常に騙されやすいのだが・・・フクベエの前に大きな鏡が描かれているのだ。当然、「のっぺらぼう=フクベエ」が連想されてしまう。だが、幽霊騒動の発端になった大学生が見たのも「のっぺらぼう」である。ケンヂとオッチョも「何か」を見ている。
鏡に向かいフクベエは「君は・・・誰・・・?」と問いかける・・・。これは何を意味しているのか?21世紀少年を読んだ方は知っていると思うが、「のっぺらぼう=カツマタ君?」と描かれる場面(VAでの話だが)が登場する。それに関連した伏線なのだろうか?もし、この16巻が「カツマタ君」の伏線であるなら、この巻に登場した「のっぺらぼうフクベエ」はカツマタ君だってことになってしまう。実にヤヤコシイ・・・。これについてはもう少し考えてみる・・・。
その後、フクベエは作文を書き続けるが・・・実は「万博は本当に楽しかったです。」という同じ文面が延々と書かれているだけである・・・。この表現も解釈に悩むのだが・・・夏休み中隠れていたコトが無意味だったことへの恨み辛みの表現ととっていいのだろうか?狂気的なフクベエの内面なのだろうか?
夏休みが終わり、フクベエはサダキヨが転校したコトを知り怒る!・・・と思いきや、驚くのだ。まるで信じてた仲間に裏切られたような?そんな印象である。「サダキヨ・・・あんな奴。あんな奴。あんな奴。絶交だ。」は、まるで除け者にされた子供が無理してツッパテル印象である。更に、フクベエの予想とは裏腹に万博の話題は一切触れられず、ケンヂとオッチョが見た首吊り坂の幽霊で盛り上がるクラス中。※これに関しては以前にユキジから、万博組のグッチィも嫉妬してた・・・その後、クラスの男子の雰囲気が変わった・・・と、思わせぶりな発言があった。
秋・・・若き日の万丈目の露天の前でのフクベエとヤマネ君の会話。ヤマネ君はフクベエに絶交を解いてもらい、しんよげんの書の内容が登場する。「たとえばこのおじさんが悪い奴でビールスを運ぶセールスマンだったら・・・」そして、フクベエは万丈目にスプーン曲げを披露する。その後の理科室での会話からは、推測だが・・・理科好きのヤマネ君がワクチンを作り世界を救うのだが・・・ワクチンを作るにはビールスが必要だから、先にビールスを作る研究をしなくちゃ・・・的な話になり、実際にヤマネ君はビールスを作るんだな、これが。ただし、悪ではなく、世界を救う為の研究だと思ってるのだろう。
そこに、サダキヨ?がやってくるのだが・・・これは、サダキヨではない可能性が高い・・・?いや、実はよく解らないのである。20世紀少年を熟読している読者ならピン!とくるのだが、ナショナルキッド仮面は2人存在し、サダキヨではない方が「新ともだち」なのだ。と、すると・・・ここに現れたのは「新ともだち」ってこと?サダキヨは府中に転校してます。
いや・・・よく解らないっていうのは、この回想(VA)自体がフクベエのものではなく、新ともだちのものだからだ。21世紀少年で、サダキヨはもう一人のナショナルキッドと仲が良かった。それを踏まえて、ここでのフクベエの台詞・・・「ともだちは僕しかいないんだ」は、実に深い台詞だと勘ぐるのは・・・考えすぎだろうか?もしかしたら・・・「ともだちと名乗る人物」は最初から2人居たのかもしれない。この理科室には、描かれていないだけで・・・もう一人居るのかも?
ね、なんだか・・・こんがらがってくるでしょ?
そして、「理科室の奇跡」へと続くのだが、先のVAとは違い、首吊り状態のフクベエは「しまった・・・仕掛けがはずれ・・・し・・・死ぬ・・・」
走馬灯のように今までの出来事が駆け巡り・・・「おまえが・・・こんなふうに死ぬとは思わなかったよ。」とケンヂらしきシルエットの人物が云う・・・で、新ともだちがVAへの記憶の読み取り中だった・・・って、流れていくのである。
おっと、もう一度「理科室の奇跡」のシーンに戻るが、実は・・・他の謎解きブログでは、フクベエ一派が「理科室の奇跡」を見せる為にドンキー(モンちゃん達)を誘い出した・・・と、推測してる方が多かったが、今までの一連の流れから見ると・・・ドンキーがココへ来たのは偶然だと私は考える。ヤマネ君もサダキヨ?も、この「奇跡」に驚いている。
フクベエって、友達が少なかったんだと思うのよ。万丈目はこの日の日中にヤマネ君から「今夜、もっとすごいことが起きるんだ。」と云われ、不敵な笑みを浮かべたことから・・・この現場を影で見ていたと思う。ま、それは置いといて、フクベエの友達は、ヤマネ君とサダキヨ?だけだったんだろうね、きっと。この手の大人びた「イヤな小学生」は少数の同じタイプの子とだけツルムものなんです。アラフォーの皆さんだったら「うんうん」って思うんじゃないかな?多分・・・「しんよげんの書」を実行したのでしょう。
ともだちは一度死んで、よみがえる・・・だったかな?
フクベエはヤマネ君に「手品じゃないのか?」と云われたことを不快に思ってたくらいなんだし、実際に奇跡ってやつを見せ付けるつもりだったのだろう。でも・・・失敗してしまうのだ。ヤマネ君はフクベエの奇跡は全部「嘘」だと知ってたが云わなかった・・・と、発言していた。仕掛けが外れて苦しむフクベエをこの後助けたのだろう。だが、この時も何も云わなかったのだろう。謎解きサイトでは、この事件を切っ掛けに、フクベエと新ともだちの立場が逆転した・・・という推理が多いのだが、表面上は変わっていないと思う。変わったとすれば・・・フクベエの内面の方だろう。今まで散々、フクベエがそういう子供だって描かれてたもの。「嘘がバレタ?」って内心ビクビクしていたかもしれないね・・・。
で、フクベエの首吊りの仕掛けが外れた際のカット割です。はい。下から見上げたカット割で描かれてます。これって、やっぱり・・・新ともだちの目線ではないでしょうか?ダメ?
新ともだちがフクベエの足を引っ張りながら云った「これが真実だ」。
これって・・・どこに繋がるのだろう?
ちょっと・・・もう一度整理してみましょうね。
このVAで根本的におかしい矛盾点です。細かいことはすっ飛ばしますね。
根本的におかしいのは、これが「新ともだちの回想」なのに、フクベエ目線で描かれていたコトです。この時点では「新ともだち」がフクベエではない事実が出てないので、矛盾を感じなかったのだが・・・新ともだち=カツマタ君の事実が明かされた事実を踏まえると、これって完全なる矛盾だということ。つまり、この矛盾を解く為には・・・フクベエ=カツマタ君でなければならないのだ。でも、それは在り得ない・・・。
そうなると、この少年フクベエはカツマタ君で、大人フクベエ(ハットリ君仮面)がナショナルキッド仮面ってコト?でも、それもピンとこない。そうなれば、これは全て、常にフクベエと共に行動していたもう一人の人物の、第三者目線で描かれたコト・・・ってなるのか?
まだ再読の途中なので、誤った推測かもしれないが・・・フクベエが描かれている回想は全てVAなのだ。実際の回想では一度も登場していない。※後にキリコの回想に登場するのだが・・・その時は、ナショナルキッド仮面2も一緒に登場している。つまり、ここに描かれていない人物がこの現場に居た可能性は否定出来ないってコトだ。
そして、もう一つの矛盾は「サダキヨとの出逢い」である。このVAでは1969年とあったが、サダキヨは1970年と云っていた。これはどう考える?先にわたしは「隣の学校も近い場合がある」と述べたが、このVAが「新ともだちの記憶」だとした場合、サダキヨが語った1970年は「フクベエとの出逢い」で、1969年は「カツマタ君との出逢い」と、素直に受け止めた方が良いのだろうか?
第16巻はこの後、ともだち暦3年・・・って、正直ダラダラ続いてしまうのだが、そこには特記すべき謎は登場しないので、割愛させて頂く。
最近のコメント